錦織圭とナショナリズム
少し時期がずれるが、錦織圭が全米テニスで「準」優勝したそうな。
はっきり言ってテニスに興味はない。
自分も含めて皆キャラクターにしか興味ないのだろう。ディファ有明のそばには有明テニスの森があるし。
それはどの競技にも言えることだが、松岡修造だって元々テニスプレイヤーだった。
今度は松岡修造は太陽になっちゃったが。
個人が好成績を残すと決まって自称師匠達がわんさか湧いて来る。
作家の田中慎弥も学校があれほど嫌いだったのに、いつの間にか高校の教師が出て来て田中が嫌いだったことさえも忘れて「そんなことないよ」と言う。
学校の先生とはそういうものなのだろう。
実際の師弟の関係はどうかさえわからないが、マスコミは分かり易い材料探しに錦織圭や田中慎弥が関わったとされる人を探して為人を探るのだろう。
じゃあ、逆にそうした著名人じゃなくて犯罪者だったらばどうだったのか。
学校の先生達の影響はどうなる?
親の影響は?
周りはどうなのだ?
常に晒されるのは犯罪者の卒業文集である。
アスリートも作家も名を馳せれば何故だか卒業文集を晒されるが。
同じ学校を出て有名人になるものがいれば犯罪者になる者だっているんじゃないのか?
東大出なんか多分に洩れずだろう。
時代の寵児だったホリエモンはどうなのだ。
一気に犯罪者になっちゃったし、マスコミはどうするのだ?
野球選手もプロ入りまで時代の寵児だったのに成績が残せないと転落する一方である。
ドロップアウトする元選手の中には犯罪に手を染める者もいるのだろう。
その時卒業文集晒して夢を抱いたと大上段に構えていた立場はどうするのだ?
犯罪に手を染めた時に再び卒業文集晒すのか?
藁人形に釘を打ち付けても意味は無いのでここまでにするが、結局どこまで行ってもメディア論なのでありマスコミ論なのだろうと思う。
環境によって人は変わるのか。
それはあるのだろう。
貧しい国はプロ入りするどころかスポーツさえ叶わないのだから。
しかし、錦織圭が何故直ぐ日本人がということになるのだろうか。
我々は日本人であるが錦織圭ではない。
日本という枠組みの中で醸成された擬似家族である。北海道の人は錦織圭よりも寧ろ血縁的にはアリューシャン列島人や北米インディアンに近かったり、沖縄の人は台湾やフィリピンの方に近かったり、それならば錦織圭と同郷の人は朝鮮半島に近かったりするんじゃないのかと思えるぞ。
所謂それがナショナリズムなのだが、気付いていない。
下手したらそれを理由として個人の目指すべき夢を握り潰してしまう虞だってあるのに。
親が子供にスポーツを強制させる例がある。
フィギュアスケートとかそうだし、野球も自分が目指せなかったから子供に押し付けるケースがある。
だが、そうやって子供までも大成した例がない。
あると言われてもそれは結局親が自分の生活を犠牲にしているからである。
親の自己満足のために子供を犠牲にさせている。ナショナリズムとエゴイズムがドッキングして歪んだ認知を産ませている。
左翼じみたことを言っているが、自我が未発達の子供に戸塚ヨットスクールみたいなことをさせても意味が無い。
ドロップアウトしたら手が付けられない筈ではないか。
ドロップアウトした子が未発達な自我を携えて粗暴を繰り返している例は今まで見て来た筈である。
勉強に期待を掛けさせる親、お稽古事に執着を燃やす親、スポーツを強制させて子供の進路を捻じ曲げる親、子供の触れる機会を奪ってきているのではないのか?
スポーツで人格が涵養されると思っている人はいまだにいるのだろう。
それは間違いだということはいつになったら気付くのだろう。
と、色々考えてみたが、地域に恵まれない人も中にはいるのだろう。
部活が無かったりする場合は金かけて地元のクラブチームに属さなきゃいけないのだろう。
まあある意味親が犠牲になることは多々あるだろう。
父ちゃんの趣味が削られるかも知れないし、小遣いだって減らされる。
その場合は親が協力的だったりする場合が殆どなんだけど。
一人の錦織圭を育てるのにどれだけの人が犠牲になるのだろう。
プロの選手はスポーツ競技が普及されることを目的としているが、プロにもなれずに失敗した子って親は金返せとでも言うのかしらね?