不定期連載BIG4について。今回は第3回、08~10年の3年間について見て行きたいと思います。前回の記事はリンク先からどうぞ。  【第三の男】  ジョコビッチの躍進は2007年から始まりました。当時19歳のジョコビッチはマイアミMSで優勝しMS初優勝を飾ると、全仏とウィンブルドン(以下WBと略)でベスト4に入り一気に世界ランク3位に上り詰めました。さらにモントリオールMSでフェデラーを破り早くもMS2勝目を挙げ、勢いに乗って迎えた全米では弱冠20歳にして決勝に進出します。ジョコビッチは今度もフェデラーを追い詰め第1セットを6-5、40-0としました。だがここで5つものSPを落として追いつかれ、結局ストレート負けを喫したのです。この後ジョコビッチは全米でフェデラーと5年連続で戦うことになります。  続く全豪ではモノ(単核症)にかかり不調のフェデラーと再び準決勝で対戦。これを見事下して05年WBから続いてきたフェデラーの連続決勝進出記録を食い止めました。続く決勝でツォンガを破ったジョコビッチは20歳にしてGS初優勝を飾りました。この年はさらに最終戦でも優勝を加え3位の座を不動のものとします。  当時からジョコビッチのストロークの実力は4位以下を凌駕していました。一方でまだ肉体的にも精神的にも脆さの多い選手でした。最大の敵はフィジカルでしょう、息切れ・スタミナ負けの多い選手で、最後の最後まで力尽きない2強との差が見えました。「ナンバースリー」の座は不動のものになりましたが、上にそびえる壁はジョコビッチをもってしても厚すぎました。ジョコビッチの3位時代は4年近く続くことになるのです。 【イギリスの期待を背負って】  アンディ・マレーはジョコビッチと同い年。フェデラー・ナダルとは異なり、彼ら二人は共に子供時代に暗い影を持っています。セルビア人のジョコビッチは少年時代を内戦と共に過ごしました。一方マレーは「ダンブレーン大量虐殺事件」の被害者の一人。16人の生徒が殺されたその日、マレーは兄と机の下に隠れて難を逃れたのです。  スコットランドという小さな地域ではマレーの対戦相手すら兄のジェレミーしかいないような状況でした。イングランドに遠征することで試合は行えたもののスコットランド人のマレー兄弟が歓迎されるはずもありません。そんな中でも練習を重ねたマレーは15歳の時スペインに単身留学してさらに力をつけていきます。  成長したマレーは2006年のシンシナティで快挙を成し遂げました。2回戦でフェデラーを破る大番狂わせを起こし、この年ナダル以外で唯一フェデラーから勝利を上げた選手となったのです。トップ選手に上り詰めたのはジョコビッチより1年遅れの2008年でした。シンシナティでジョコビッチを破ってMS初優勝を挙げるとその勢いでナダルを破り全米決勝進出。だがそこに待ち構えていたのはこの年GSでまだ優勝のないフェデラーでした。完敗を喫したマレー、しかしまだ21歳のマレーがGSを取る日は遠くないように思えました。それが果てしなく遠く感じる4年間の始まりでした。  トップ選手に上り詰めたマレーにはイギリスの悲願、ウィンブルドン制覇の期待がかけられました。マレーはそれに答えるべく2009年に準決勝に進みます。準決勝はロディックとの「アンディ対決」、下馬評はマレー有利でした。だが今までになくストロークを強化して臨んできたロディックはまるで別人でした。マレーは第3セット2-5からタイブレークに持ち込む粘りを見せたものの敗れました。 【2強+2強体制】  08~10年は基本的にナダル、フェデラーの2強とそれに続くジョコビッチとマレーという位置づけで進んでいきます。実は両者とも一瞬2位に入った時期はあって、マレーは09年全米前、ジョコビッチは10年WB後にそれぞれ数週間2位になっています。マレーが2位を維持していたら歴史が変わっていたかもしれません。だが09年全米でマレーはまさかの4回戦敗退、実は前哨戦で腰を痛めてしまっていたのです… その2に続きます。